『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)および『現代日本の批評』(東浩紀)感想
社会学出身の人に宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を、阪大言語文化の先生に東浩紀『現代日本の批評』を薦められたので購入。
両方とも批評が辿ってきた歴史を追うという点など共通するものがあったので、同時並行で読んでみました。
なお『現代日本の批評』の「1975~2001」を読んでから、「2001~2016」とゼロ想を比較しました。
まず、『ゼロ年代の想像力』を読んで
- 「ドラゴン桜」「野ブタをプロデュース」「蹴りたい背中」「DEATH NOTE」「仮面ライダー」などドラマ、漫画、テレビ、映画など幅広い作品を取り上げることにより持論を展開している。
- 個人的には、7章「宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか――(郊外型)中間共同体の再構成」の中で石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』から都市論に触れるところ、
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8章「ふたつの『 野ブタ。』 のあいだで―― 木皿泉と動員ゲームからの離脱可能性」において原作版とドラマ版を比較しながら考察し、ゼロ年代以降の生き方(決断主義的?)において肯定的な解を提示しているところ、
- 10章「肥大する母性のディストピア―― 空転するマチズモと高橋留美子の「重力」においてセカイ系作品を「レイプ・ファンタジー」として、『うる星やつら』のように「いわば独身男性向けのハーレクイン・ロマンスのように消費されるフォーマット」と批判しつつ、その背景の「母性の重力の問題」を語っているところが楽しく読めた。
高橋的な母性の重力が戦後サブ・カルチャー自体を飲み込んでしまっていた証拠のように思える。同族嫌悪的にマッチョイズムを批判しつつ少女を「所有」し続けてきたこの国の少年たちを縛り付けていたものは、おそらく父親ではなく、むしろ母親なのではないだろうか。本当に語られるべき本質的な問題は、この十年語られてこなかった場所にあるのではないだろうか。(宇野 2008)
- また、「自分の好きな作品だけをとりあげて論じている」という批判も見たけど、現実にたいして批評がまったく追いついておらず、東浩紀以降サブカルチャー批評の人材が輩出されていない、という問題意識~同時代的な問題の取り扱いかたも大まかな流れは網羅できている感があった。
そして、『現代日本の批評 2001~2016』を読んで
- 2001年までに比べて時代が多様化し、批評というものが成り立ちにくくなっているという問題意識はゼロ想とも同じものだった。
- これから批評の形はもっと短いスパンで変わっていく?大澤聡は「ゼロ想は時代区分が近視的すぎるのでは」と言うのも、2008年の出版後たとえば2011年の震災など長期的に見るとよりはっきりする区分が存在したりSNSの台頭による批評の変化もあるから、作品を年代で分けながら時代の変化をカテゴライズするというやり方ではない新しい方法が必要な気がする。
大塚英志、宮台真司、ぼくと続く流れは決定的に東京の問題意識で、ほとんど地方は関係ない。それでも昔は日本人はみな東京を向いていたからなんとかなっていたのだけど、ゼロ年代の半ば以降、その構図が崩れてしまった。批評史的には、まさにそこを突いたのが宇野常寛だといえる。(東 2018)