興味あった本『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』東浩紀・北田暁大
以前から興味あった本『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス)2007 を読んでみました!
10年以上前に書かれた本ですが、東京民にとっては納得するところも多いのでは。個人的に東京という都市に抱いていたモヤモヤが少し言語化された気がします。
東京は、東西に大きな差異があるだけではなく、複数の小都市が集まったモザイク型の地域という印象があります。
(東, 20貢)
なども単純ですが言い得て妙という感じ!
また、ITなどの同業種が集まって街を作っていくのではないかという東氏の予想は的中し、2019年現在、(ここは東さんは予期していなかった気がするが)今や渋谷がIT企業の街として六本木とは違う毛色の都市に、さらに渋谷の再開発もここ10年で進んできていますね。
下町の景観は文京区と台東区の一部にだけ、アッパーミドルな層が「下町的」景観を楽しむために残り、残りのリアルなダウンタウン(荒川区や足立区など)は郊外化していくというのも納得できました。
あと、ジブリ美術館開館(2001)をはじめとする同時期のアニメ振興策に中央官庁は別に関わっていないんじゃないかと本書では予想されていますが、今となればこの時期からクールジャパンの原型的な政策が進められていたことが......。
個人的に不満だったのは
- 「郊外」といってもほとんど23区内や千葉・神奈川だけが取り上げられ、東京都下や埼玉についてはほぼ触れられていなかったこと
- 「地方都市」として語られていたのがほぼ首都圏だったこと
郊外論やそこから発展した最終章の考察はとても興味深かったけど、青葉台や杉並区は郊外だと・神奈川は地方だといえるんだろうか?という疑問。
たまに兵庫などについてちょこちょこ出てくるものの、関東圏以外の地方都市からの視点も欲しかったです。
本書で登場した高級住宅街とよばれる地域は現在空き家が増えて高齢化も進み、池袋もさらに外国人が増えるなど、本書に書かれた頃とは様子が違ってきています。
大阪に住んでいた身としていうと、天王寺なんかのほうが「郊外都市」として洗練され、バリアフリーも東京の都心より進んでいるのは感じます。2020年のオリンピックに向けての都市開発で、東京がますますゴチャゴチャした都市になるんじゃないか個人的に心配です。。。
あと本書については「動物化」など、東さんの著作を読んでいないと理解しにくい用語を使っていたのは気になったかな。
しかし、普遍的な都市論・思想の記述も多く、「東京という都市の輪郭を掴む」という目的では良書でした。
積読を消化する『スカートの下の劇場』上野千鶴子
NewsPicksの上野千鶴子さんインタビュー記事がとてもわかりやすかったので、かねてから読みたい本リストに入れていた『スカートの下の劇場』を読んでみることにした。
売れるためのタイトル・表紙とは裏腹にジェンダー論の歴史や知識がわかる良書だった。1989年に書かれた本だけど文体も読みやすくてかつ普遍的で、現代の予言も的中していて上野千鶴子すごいな~と思った。
今から三十年ぐらい前、戦後無頼派といわれる小説家の一人が、あるときしみじみと、自分の後輩の作家に、「ねえ、君、僕はつね日頃疑問な んだけれど、女には性欲というものがほんとうにあるんだろうか」と言ったという話があります。今から見ればまったく笑うべきエピソードです。そんなことは近代以前の日本人も、近代以後の日本人も言うわけがありません。"近代"という悪夢のようなある一時期の人たちだけが、真面目に信じこんだ神話でした。男も女もそれを信じていました。
今ネットで炎上しているジェンダー云々のことも30年前に議論されてきたことな気がする。
他の近著も読んでみたい。
『月と六ペンス』感想
『月と六ペンス』モーム(光文社古典新訳文庫)を読んだ。人に勧められたうちの1冊。岩波訳か新潮訳で勧められて、私も昔はだいたい新潮訳を選んでたけど、Kindle版があった光文社で。
読んでいる最初はつい最近出た本かな?と思うくらい人間の描写が普遍的だった。
モームは医者をしていたときにさまざまな階層の人々を見てきたので、その経験が生きているという。
じゃっかん時代背景や女性観については疑問があったけど、まあそれも今でも通用するとこもあるかなと。
そして『月と六ペンス』は芸術家、ストックランドの半生を独身の男性(モームの分身)が追っていくストーリーだけど、最後の解説ではモームの人生、同性愛、時代背景が紐解かれている。
ストリックランドはゴーギャンをモデルにしているけど、架空の人物。
ストリックランドは破滅的な芸術家のステレオタイプなのにたいし、モームは通俗作家として同時代でも評価され、91歳まで生きて、現在も彼の作品は読み継がれているという対比が面白いかも。
そして通俗的な作品に彼の時代では隠さなくてはいけなかった同性愛が暗号化されているように、他の作品も裏をみて読むと面白そうと思った。
『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛)および『現代日本の批評』(東浩紀)感想
社会学出身の人に宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を、阪大言語文化の先生に東浩紀『現代日本の批評』を薦められたので購入。
両方とも批評が辿ってきた歴史を追うという点など共通するものがあったので、同時並行で読んでみました。
なお『現代日本の批評』の「1975~2001」を読んでから、「2001~2016」とゼロ想を比較しました。
まず、『ゼロ年代の想像力』を読んで
- 「ドラゴン桜」「野ブタをプロデュース」「蹴りたい背中」「DEATH NOTE」「仮面ライダー」などドラマ、漫画、テレビ、映画など幅広い作品を取り上げることにより持論を展開している。
- 個人的には、7章「宮藤官九郎はなぜ「地名」にこだわるのか――(郊外型)中間共同体の再構成」の中で石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』から都市論に触れるところ、
-
8章「ふたつの『 野ブタ。』 のあいだで―― 木皿泉と動員ゲームからの離脱可能性」において原作版とドラマ版を比較しながら考察し、ゼロ年代以降の生き方(決断主義的?)において肯定的な解を提示しているところ、
- 10章「肥大する母性のディストピア―― 空転するマチズモと高橋留美子の「重力」においてセカイ系作品を「レイプ・ファンタジー」として、『うる星やつら』のように「いわば独身男性向けのハーレクイン・ロマンスのように消費されるフォーマット」と批判しつつ、その背景の「母性の重力の問題」を語っているところが楽しく読めた。
高橋的な母性の重力が戦後サブ・カルチャー自体を飲み込んでしまっていた証拠のように思える。同族嫌悪的にマッチョイズムを批判しつつ少女を「所有」し続けてきたこの国の少年たちを縛り付けていたものは、おそらく父親ではなく、むしろ母親なのではないだろうか。本当に語られるべき本質的な問題は、この十年語られてこなかった場所にあるのではないだろうか。(宇野 2008)
- また、「自分の好きな作品だけをとりあげて論じている」という批判も見たけど、現実にたいして批評がまったく追いついておらず、東浩紀以降サブカルチャー批評の人材が輩出されていない、という問題意識~同時代的な問題の取り扱いかたも大まかな流れは網羅できている感があった。
そして、『現代日本の批評 2001~2016』を読んで
- 2001年までに比べて時代が多様化し、批評というものが成り立ちにくくなっているという問題意識はゼロ想とも同じものだった。
- これから批評の形はもっと短いスパンで変わっていく?大澤聡は「ゼロ想は時代区分が近視的すぎるのでは」と言うのも、2008年の出版後たとえば2011年の震災など長期的に見るとよりはっきりする区分が存在したりSNSの台頭による批評の変化もあるから、作品を年代で分けながら時代の変化をカテゴライズするというやり方ではない新しい方法が必要な気がする。
大塚英志、宮台真司、ぼくと続く流れは決定的に東京の問題意識で、ほとんど地方は関係ない。それでも昔は日本人はみな東京を向いていたからなんとかなっていたのだけど、ゼロ年代の半ば以降、その構図が崩れてしまった。批評史的には、まさにそこを突いたのが宇野常寛だといえる。(東 2018)
卒論一部公開(マクルーハンのとこ)
卒論の一部
メディアと文化
本研究においてメディアの役割を検討するにあたり、現代メディア論の古典であるマーシャル・マクルーハンの思想を援用する。マクルーハンには「メディアはメッセージである」という有名なフレーズがある。
すなわち、メディアとはその伝えようとする内容よりも、それ自体が社会的、心理学的、感覚的にもたらす影響力の方が大きな意味をもつものなのだということである(クリストファー 小畑訳 2005:4)。
他にもマクルーハンは「どんなメディアでもその「内容」はつねに別のメディアである」(マクルーハン 栗原, 河本訳 1987:8)などの一文も残しており、伝達媒体と伝達内容の明確な切り分けを重視し、現代のメディア論の基礎を築いた。
マクルーハンの思想は、情報社会などポストモダン的な問題に応用されてはいるが、クリストファー(2005)によると、彼が基礎とするヒューマニズムの仮説はポストモダニズムが脱構築を援用して反駁の努力を積み重ねてきたものに他ならず、彼の思想と現代の多様なメディアに対する考察を結びつけるには、本来、複雑な作業が必要であろう。
しかし一方で『マクルーハンとヴァーチャル世界』を論ずる吉見(2005)によると、マクルーハンが扱おうとしていたのはまさしく現代のポストモダン的なメディア状況であることに疑いの余地はないという。
このように、マクルーハンは一面で旧来のヒューマニストな観点を色濃く残していた一方で、媒体と内容の峻別についてのシャープな意識から、ポストモダン的な解釈が可能であり、現代のメディア論の基礎として援用することも可能である。本研究は、マクルーハンのポストモダン的解釈から得られる方法論的ビジョンを基礎として展開する予定である。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
こっちのブログは更新があきました。お久しぶりです。
先月は卒論で死んでました。活字メディアを言語処理してそのデータを分析、みたいなテーマにしたんですが、そもそも言語処理の方法論習得に手こずり、図書館で何度も徹夜を繰り返しました。
何を用いて分析するかというと、メディア論やポストモダン系の現代思想・・・しかしそもそも外国語学部フィリピン語専攻の卒論なのでそれをフィリピンに絡めるところで苦戦して、最後の最後でフィリピンや東南アジア関連の文献を読む。
そして卒論の後はじめてフィリピンに行くという・・・そもそもテキストマイニングが何かもわかりにくい・・・
めちゃくちゃな感じでしたが、そんなところも専攻語の先生からすると私らしかったんじゃないかな〜と思います。(無理やりなまとめ)
まあもう終わったことだし失うものはないのでブログで公開します。
多くの本を読んだことで色々勉強にはなりました。
最近、落合陽一『魔法の世紀』を読んでいるんですがテクノロジーを語るさい、やはりマクルーハンは登場しているので勉強して良かったな〜とテンション上がってます。
テクノロジーについて、
技術は深めつつも現代思想として語れるようになるのが夢です。←